チョウソガベが来るぞー
INDEX
私の先祖は土佐の吾川郡の弘岡という地を治めていた吉良一族とされています。戦国時代に吉良家は長宗我部に滅ぼされ滅亡し
ますが、落城の最中、中間の夫婦が生き残った幼い主の遺児を馬に乗せて四国山脈を越えて伊予の国に落ち延び大洲の地にたど
りつき、遺児は長じて先祖の治めた地名の弘岡姓を名乗り、大洲藩主に仕えました。
さて私の子供の頃、夕方遅くまで外で遊んでいると、大人達から「チョウソガベが来るぞ早よ帰れ!」と言われ、なにやら恐ろしい怪物が現れるのかと急いで家に駆け戻りました。
後年分かった事ですが伊予の国(愛媛)の人々にとって400年たっても長宗我部軍の侵略の恐怖が身についており多くの土地で言い伝えられているとの事です。墓参りの度に祖母から無念な先祖の話を聞きチョウソガベという名に遺恨の様な思いを抱いていましたので余計に「チョウソガベが来るぞ」に特別な感情を覚えたのでした。
そのチョウソガベに対する感情が中学生の時に微妙に変化する出来事がありました。
何とチョウソガベならぬソガベがやって来たのです。
我々の英語の先生は饅頭屋の2階に下宿している気弱な人のよさそうな先生で、自信なさげな先生の英単語の発音をいつもクラス全員で一斉に復唱していました。
ある時、comfortable という単語を先生がいつもののんびり調子で「コンファア・テ~ブル」と発音し、クラス全員で復唱しました。その時突然ある勇気ある女子生徒がさっと手を上げ、「先生これはカンファタブルと発音するのではないでしょうか?」と質問したのです。英語教師は顔面を真っ赤にして動揺し「何を言いよるんぞ!よう発音記号を見てみい・発音記号・・発音記号・・あれ?そがいな発音の事もある。」と訳の分からな事をもぞもぞ言いながら授業は終わってしまいました。
この件を父兄の誰かが学校側に言ったのか次の学期の校庭での始業式に教頭の隣に若くて綺麗な女の先生が立っており男子学生はどよめきました。校長はその先生が大学の英語教育を専攻して卒業したばかりで何と外人と話したことがある。」と紹介しました。田舎では当時だれも外人を見た事さえなく町を通り過ぎたジープに乗った進駐軍の外人を見た事が自慢になるぐらいでした。校長に紹介された先生は恥ずかしそうにしながらもきれいな声で皆さんと一緒に勉強しましょう。]と挨拶されました。
その先生の名前は「チョウソガベからチョウを取ったソガベ(S)先生でした。
男子生徒は寄ると触るとS先生の話です。「大体発音が違がわい。Cameraをカメラ言わんとカムーラと言うんぞ」「近づくとええ匂いがしとんなはる。」「彼氏はおんなはるんじゃろうか?」・・と言うわけで授業を抜けだしてS先生の教室を覗き見するものまで現れました。
ある時渡り廊下を歩いていると前をS先生がタイトなスカートで歩いており思春期真っ盛りの小生はその躍動するプロポーションをドキドキしながら見とれていましたが、突然後ろから「ええ尻じゃなあ~」と感に堪えない声がしました。一瞬心を見透かされたかと赤面して振り向くとベレー帽の美術の先生が好色そうな眼をS先生の後ろ姿に向けていました。今ならセクハラで大変ですし、生徒の前の発言でPTAが騒ぎ出しかねませんがおおらかな時代です。美術の先生は「なあ弘岡そう思うじゃろ」と同意を求めて来ました。
私は思わず「はい!」と答えてしまったのです。この時からチョウソカベは私の心の中で遺恨の対象ではなく何やら甘い憧れの名前に変わったのでした。美術教師とは数十年後に同窓会でお会いし酒を酌み交わしながら当時のエピソーに花が咲きましたが10年程前に亡くなられました。憧れのS先生はお元気であれば80歳過ぎと思われます。魅力的なグラマナスなしゃれたおばあちゃんになっておられる事でしょう。
さて中学時代から50年近く経って驚く事がありました。なんと開業以来の古い患者さんにある時、長宗我部の子孫だと告げられたのです。攻めた者と滅ぼされた者の子孫が患者様と主治医の関係である奇遇に先祖たちも驚いている事でしょう。
森 論外
理事長 弘岡泰正
私の先祖は土佐の吾川郡の弘岡という地を治めていた吉良一族とされています。戦国時代に吉良家は長宗我部に滅ぼされ滅亡し
ますが、落城の最中、中間の夫婦が生き残った幼い主の遺児を馬に乗せて四国山脈を越えて伊予の国に落ち延び大洲の地にたど
りつき、遺児は長じて先祖の治めた地名の弘岡姓を名乗り、大洲藩主に仕えました。
さて私の子供の頃、夕方遅くまで外で遊んでいると、大人達から「チョウソガベが来るぞ早よ帰れ!」と言われ、なにやら恐ろしい怪物が現れるのかと急いで家に駆け戻りました。
後年分かった事ですが伊予の国(愛媛)の人々にとって400年たっても長宗我部軍の侵略の恐怖が身についており多くの土地で言い伝えられているとの事です。墓参りの度に祖母から無念な先祖の話を聞きチョウソガベという名に遺恨の様な思いを抱いていましたので余計に「チョウソガベが来るぞ」に特別な感情を覚えたのでした。
そのチョウソガベに対する感情が中学生の時に微妙に変化する出来事がありました。
何とチョウソガベならぬソガベがやって来たのです。
我々の英語の先生は饅頭屋の2階に下宿している気弱な人のよさそうな先生で、自信なさげな先生の英単語の発音をいつもクラス全員で一斉に復唱していました。
ある時、comfortable という単語を先生がいつもののんびり調子で「コンファア・テ~ブル」と発音し、クラス全員で復唱しました。その時突然ある勇気ある女子生徒がさっと手を上げ、「先生これはカンファタブルと発音するのではないでしょうか?」と質問したのです。英語教師は顔面を真っ赤にして動揺し「何を言いよるんぞ!よう発音記号を見てみい・発音記号・・発音記号・・あれ?そがいな発音の事もある。」と訳の分からな事をもぞもぞ言いながら授業は終わってしまいました。
この件を父兄の誰かが学校側に言ったのか次の学期の校庭での始業式に教頭の隣に若くて綺麗な女の先生が立っており男子学生はどよめきました。校長はその先生が大学の英語教育を専攻して卒業したばかりで何と外人と話したことがある。」と紹介しました。田舎では当時だれも外人を見た事さえなく町を通り過ぎたジープに乗った進駐軍の外人を見た事が自慢になるぐらいでした。校長に紹介された先生は恥ずかしそうにしながらもきれいな声で皆さんと一緒に勉強しましょう。]と挨拶されました。
その先生の名前は「チョウソガベからチョウを取ったソガベ(S)先生でした。
男子生徒は寄ると触るとS先生の話です。「大体発音が違がわい。Cameraをカメラ言わんとカムーラと言うんぞ」「近づくとええ匂いがしとんなはる。」「彼氏はおんなはるんじゃろうか?」・・と言うわけで授業を抜けだしてS先生の教室を覗き見するものまで現れました。
ある時渡り廊下を歩いていると前をS先生がタイトなスカートで歩いており思春期真っ盛りの小生はその躍動するプロポーションをドキドキしながら見とれていましたが、突然後ろから「ええ尻じゃなあ~」と感に堪えない声がしました。一瞬心を見透かされたかと赤面して振り向くとベレー帽の美術の先生が好色そうな眼をS先生の後ろ姿に向けていました。今ならセクハラで大変ですし、生徒の前の発言でPTAが騒ぎ出しかねませんがおおらかな時代です。美術の先生は「なあ弘岡そう思うじゃろ」と同意を求めて来ました。
私は思わず「はい!」と答えてしまったのです。この時からチョウソカベは私の心の中で遺恨の対象ではなく何やら甘い憧れの名前に変わったのでした。美術教師とは数十年後に同窓会でお会いし酒を酌み交わしながら当時のエピソーに花が咲きましたが10年程前に亡くなられました。憧れのS先生はお元気であれば80歳過ぎと思われます。魅力的なグラマナスなしゃれたおばあちゃんになっておられる事でしょう。
さて中学時代から50年近く経って驚く事がありました。なんと開業以来の古い患者さんにある時、長宗我部の子孫だと告げられたのです。攻めた者と滅ぼされた者の子孫が患者様と主治医の関係である奇遇に先祖たちも驚いている事でしょう。
森 論外
理事長 弘岡泰正