今は亡き懐かしい患者さん達

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 私達のクリニックは今年の5月で開業して22年になりました。患者さんや地域の皆さん、多くのスタッフに支えられ何とかやって来れました。長い年月の中で嬉しかった事や辛かった事が色々ありました。裏の御苑の桜は年年歳歳、花相似たりですが患者さんもスタッフも歳歳年年人同じからずで随分変りました。幼稚園児で母親の後ろにいつも隠れていた泣き虫の子が今や有名大学の筋骨隆々の文武両道に励むさわやかな学生となって現れたり、食べず嫌いで母親を悩ませた子供が立派な料理人になって顔を出してくれたりすると、時の流れを感ずると同時に嬉しくなってしまします。

 

 その一方で、古くからの多くの高齢の患者さんが旅立たれました。明治大正生まれの人生の大先輩から診療の合間に聞く昔話を楽しみにしていましたが今はかなわぬ事となりました。特に印象に残る存在感のある患者さんが亡くなり、カルテに事務的に死亡報告を記載する時「あああの方はもう来られないんだ…。」と診察時の笑顔などを思い浮かべ、言いようのない寂寥感にとらわれます。
 私の様な町医者でも長年信頼して来られる患者さんとの間にはお互いに信頼関係が出来、「コンチワ~。」と言って来院されると外来受付の時点でクリニックの雰囲気が変わり「御常連様お一人ご来店~!」という感じで、病気で来られたにもかかわらずクリニックがなんとなく和みます。今回のコラムでは記憶に残る今は亡き名物患者さんを個人情報保護法の許される範囲でご紹介したいと思います。

 

◆たこ焼き屋のNさん◆
 警察に道路交通法でしょっちゅう引っ張られ瀬戸内海の海賊の子孫と称した屋台のたこ焼き屋のNさんは何度も癌の手術で入退院を繰り返しながらも「先生 おれ死ぬような気がしないんだけど。」等と言っていましたが「うんあんたはゾンビだから大丈夫」と応えると嬉しそうにしていましたがとうとうあの世へ行ってしまいました。最近夢の中でしばしばNさんがHをしに現れると70半ばの未亡人がこぼしています。ほんとにゾンビかも。

 

 ◆渡世人OBのKさん◆
 若いころ関西に本部がある○○組の本部の廊下のふき掃除をした事を自慢にし、足を洗った後も渡世人気取りで 外来に来る度に 香具師の商売の売れ残りのウミガメの革と称するチャックが壊れた臭い革の財布だの1週間で針が止まった王冠マークが一本多いローレックス、真っ赤なだぶだぶの着古したブレザー、クリニック中に匂いが立ち込めた一斗ダル一杯の自分が漬け込んだと称するラッキョウの漬物等持って来て「遠慮はいらねーとっときな。」等というものですから困ってしまい「お気持ちだけ頂きます。」などと言うと「遠慮は体に毒だ!」等と訳の分からに事を言って粋がって帰って行きました。福祉の世話になり話の半分は作り話で隣近所のみんなに迷惑を懸けながらも不思議に愛されたフーテンの寅さんのようなKさんも心臓が人の2倍もある心肥大を自分では心が人の2倍大きいと勘違いしたままの大往生でした。

 

◆自衛消防団OBのZさん◆
 町内の自衛消防団の大ボスでニューヨークの消防士の表敬訪問でもらったという野球帽をいつもかぶり火事の話と 祭りの神輿の話を始めたら止まらないZさんは毎日診察に来ているのか世間話をしにきたのか分かりませんでしたが 大柄のZさんに比べ随分と華奢で小柄な奥さんが認知症になってしまい、「カカアが夜中に枕元で子供を寝かしつける様に俺の禿げ頭を撫でつづけるので寝れないと。」とこぼし「それもあんたに対する愛情だよ。」と言うと「シャアないか。でも先生睡眠薬を処方して。」と言っていましたが奥さんを残して逝ってしまいました。夏祭りの時期になるとZさんを思い出します。

 

◆元映画監督のAさん◆
 二十四の瞳の映画に少年役で出演し、その後人気刑事ドラマの監督になったAさんは少し物忘れが始まり、クリニックに来るつもりが何故かはるか離れたところで倒れて発見され、手にクリニックの診察券を握りしめ傷だらけで救急車で搬送されて来ました。入院設備がなく救急科を標榜していない私たちのクリニックに救急車が患者を搬送してきたのは後にも先にもこの時だけです。救急隊員が申し訳なさそうに「すみませんあとは宜しく。」と帰っていきました。一見ぼけ老人風でしたが、いつも文庫本を読みながら待合で静かに待ち、一寸した一言にインテリジェンスを感じる素敵な人でしたがご自宅の食卓でご夫婦で向き合って亡くなっているところを死後時間がたって発見されたそうです。在宅医療の見守り、孤独死をライフワークに考えている私にとって多くの示唆を与えて頂いたAさんの最後でした。

 

◆おかまOBのBさん◆
 有名な?新宿2丁目に位置する私達のクリニックへは様々な年代の2丁目のお客様がいらっしゃいます。Bさんは子供の頃から女性っぽく戦争中に初年兵の行進の際に鉄砲を担ぎながらも腰がくねくねとした内また歩きになり帝国軍人にあるまじきと上官から何度もケツをひっぱたかれてしごかれたそうですが上官も矯正できず諦めたという話を聞かせてくれました。「勇ましい人は皆戦死しちゃって私の様なのが生き残って不思議ね。私は軍国主義は大嫌い。平和がいちばん!」といつも着物で現れた元おかまのBさんはだいぶ前に風の便りで亡くなったと聞きました。

 

 そのほか毎日クリニックの開く前に自転車をよろよろとこいで現れビルの前でシャッターが開くのを待ち寡黙に電気治療を受けて帰っていった90歳のCさん。夏になるとランニングに半ズボンで昭和初期の小学生がトンボ釣りに行く様ないでたちで現れた凧作りの名人の石屋のDさん。時代劇の大部屋出身でいつも御用!御用!と叫びながら切られる端役だったのにTVのドッキリ番組で素人の一般人として仕掛けられ銭湯で頭を洗って顔を上げると周りにペンギンがいて腰を抜かした場面が放映され憤慨しながらも初めての主演を嬉しそうにしていたFさん・・・・・。

 

 懐かしい皆様のご冥福を改めてお祈り申し上げます。

 

 

理事長 弘岡泰正

 

 私達のクリニックは今年の5月で開業して22年になりました。患者さんや地域の皆さん、多くのスタッフに支えられ何とかやって来れました。長い年月の中で嬉しかった事や辛かった事が色々ありました。裏の御苑の桜は年年歳歳、花相似たりですが患者さんもスタッフも歳歳年年人同じからずで随分変りました。幼稚園児で母親の後ろにいつも隠れていた泣き虫の子が今や有名大学の筋骨隆々の文武両道に励むさわやかな学生となって現れたり、食べず嫌いで母親を悩ませた子供が立派な料理人になって顔を出してくれたりすると、時の流れを感ずると同時に嬉しくなってしまします。

 

 その一方で、古くからの多くの高齢の患者さんが旅立たれました。明治大正生まれの人生の大先輩から診療の合間に聞く昔話を楽しみにしていましたが今はかなわぬ事となりました。特に印象に残る存在感のある患者さんが亡くなり、カルテに事務的に死亡報告を記載する時「あああの方はもう来られないんだ…。」と診察時の笑顔などを思い浮かべ、言いようのない寂寥感にとらわれます。
 私の様な町医者でも長年信頼して来られる患者さんとの間にはお互いに信頼関係が出来、「コンチワ~。」と言って来院されると外来受付の時点でクリニックの雰囲気が変わり「御常連様お一人ご来店~!」という感じで、病気で来られたにもかかわらずクリニックがなんとなく和みます。今回のコラムでは記憶に残る今は亡き名物患者さんを個人情報保護法の許される範囲でご紹介したいと思います。

 

◆たこ焼き屋のNさん◆
 警察に道路交通法でしょっちゅう引っ張られ瀬戸内海の海賊の子孫と称した屋台のたこ焼き屋のNさんは何度も癌の手術で入退院を繰り返しながらも「先生 おれ死ぬような気がしないんだけど。」等と言っていましたが「うんあんたはゾンビだから大丈夫」と応えると嬉しそうにしていましたがとうとうあの世へ行ってしまいました。最近夢の中でしばしばNさんがHをしに現れると70半ばの未亡人がこぼしています。ほんとにゾンビかも。

 

 ◆渡世人OBのKさん◆
 若いころ関西に本部がある○○組の本部の廊下のふき掃除をした事を自慢にし、足を洗った後も渡世人気取りで 外来に来る度に 香具師の商売の売れ残りのウミガメの革と称するチャックが壊れた臭い革の財布だの1週間で針が止まった王冠マークが一本多いローレックス、真っ赤なだぶだぶの着古したブレザー、クリニック中に匂いが立ち込めた一斗ダル一杯の自分が漬け込んだと称するラッキョウの漬物等持って来て「遠慮はいらねーとっときな。」等というものですから困ってしまい「お気持ちだけ頂きます。」などと言うと「遠慮は体に毒だ!」等と訳の分からに事を言って粋がって帰って行きました。福祉の世話になり話の半分は作り話で隣近所のみんなに迷惑を懸けながらも不思議に愛されたフーテンの寅さんのようなKさんも心臓が人の2倍もある心肥大を自分では心が人の2倍大きいと勘違いしたままの大往生でした。

 

◆自衛消防団OBのZさん◆
 町内の自衛消防団の大ボスでニューヨークの消防士の表敬訪問でもらったという野球帽をいつもかぶり火事の話と 祭りの神輿の話を始めたら止まらないZさんは毎日診察に来ているのか世間話をしにきたのか分かりませんでしたが 大柄のZさんに比べ随分と華奢で小柄な奥さんが認知症になってしまい、「カカアが夜中に枕元で子供を寝かしつける様に俺の禿げ頭を撫でつづけるので寝れないと。」とこぼし「それもあんたに対する愛情だよ。」と言うと「シャアないか。でも先生睡眠薬を処方して。」と言っていましたが奥さんを残して逝ってしまいました。夏祭りの時期になるとZさんを思い出します。

 

◆元映画監督のAさん◆
 二十四の瞳の映画に少年役で出演し、その後人気刑事ドラマの監督になったAさんは少し物忘れが始まり、クリニックに来るつもりが何故かはるか離れたところで倒れて発見され、手にクリニックの診察券を握りしめ傷だらけで救急車で搬送されて来ました。入院設備がなく救急科を標榜していない私たちのクリニックに救急車が患者を搬送してきたのは後にも先にもこの時だけです。救急隊員が申し訳なさそうに「すみませんあとは宜しく。」と帰っていきました。一見ぼけ老人風でしたが、いつも文庫本を読みながら待合で静かに待ち、一寸した一言にインテリジェンスを感じる素敵な人でしたがご自宅の食卓でご夫婦で向き合って亡くなっているところを死後時間がたって発見されたそうです。在宅医療の見守り、孤独死をライフワークに考えている私にとって多くの示唆を与えて頂いたAさんの最後でした。

 

◆おかまOBのBさん◆
 有名な?新宿2丁目に位置する私達のクリニックへは様々な年代の2丁目のお客様がいらっしゃいます。Bさんは子供の頃から女性っぽく戦争中に初年兵の行進の際に鉄砲を担ぎながらも腰がくねくねとした内また歩きになり帝国軍人にあるまじきと上官から何度もケツをひっぱたかれてしごかれたそうですが上官も矯正できず諦めたという話を聞かせてくれました。「勇ましい人は皆戦死しちゃって私の様なのが生き残って不思議ね。私は軍国主義は大嫌い。平和がいちばん!」といつも着物で現れた元おかまのBさんはだいぶ前に風の便りで亡くなったと聞きました。

 

 そのほか毎日クリニックの開く前に自転車をよろよろとこいで現れビルの前でシャッターが開くのを待ち寡黙に電気治療を受けて帰っていった90歳のCさん。夏になるとランニングに半ズボンで昭和初期の小学生がトンボ釣りに行く様ないでたちで現れた凧作りの名人の石屋のDさん。時代劇の大部屋出身でいつも御用!御用!と叫びながら切られる端役だったのにTVのドッキリ番組で素人の一般人として仕掛けられ銭湯で頭を洗って顔を上げると周りにペンギンがいて腰を抜かした場面が放映され憤慨しながらも初めての主演を嬉しそうにしていたFさん・・・・・。

 

 懐かしい皆様のご冥福を改めてお祈り申し上げます。

 

 

理事長 弘岡泰正

 

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